伝道について、何某より

 『「伝道とは人が増えることである」というわけではない』という匿名様の主張、 深く同意いたします。

じゃあ何なのか、うーん、何なんでしょうねえ。ちょっと考えてみますね。

 

 そもそも人を「伝道」に駆り立てる最大の要因って「わたしがこの人を救いに導かなくては、この人は滅ぶ」という責任感(ないし強迫観念) だと思うんですよね。この責任感(ないし強迫観念)の延長線上に「救いに導かれた人の増加」という目標が「二次的に」発生していると思うんですよ。 つまり「救われる可能性を持ちつつも、『わたしの介入』なしには滅ぶ民の群れ」が「伝道熱心な人たち」の目には見えているんでしょうね。

 そんなヴィジョンを目にしてしまったら、伝道熱心にならざるを得なくなるだろうなあ、 ということもなんとなーくわかるんですよ。なーんとなーくですが。

 

 でもねえ、最近思うんですけど、結局のところ人間って「教えを乞いに来た人」にしか、教えを伝授できないように 出来てるんだと思うんですよね。「教えを乞いに来ていない人」に必死に教え伝授しようとすることくらい、 時間と労力の無駄はないと思うんですわ。

 やっぱり「ご縁」があれば、絶対にどこかで「教えを伝授する機会」って、生まれてくるはずだと思うんですよ。 そういう意味では常に「伝道するための準備」はしておいたほうがいいはずなんですよね。ご縁に備えて。

 

 伝道は一瞬の間合いで終わる作業なはずですから。 だらだらやるもんじゃない。

 

何某より

愚かな伝道

匿名より:

 最近、道端でみた教会が人集めに必死なようで、またその正当化に躍起になっているさまをみて何ともいえない気持ちになりました。「伝道とは人を増やすことではない」というのは当然すぎる事柄です。教会を集っている人数で把握しようとすることは、会社情報をみるのと同じであって、それは教会住所を確認する程度の話でしかありません。HPを閲覧する程度の話です。

 にも関わらず「伝道とは人が増えることである」というような暗愚牧師が散見されることには怒りと呆れを覚えます。この手の暗愚どもには、さっさとゲヘナでも天国でも殿堂入りしてもらい倉庫に詰めることこそ、世のため人のため神のためではないかと思います。

 そもそも人口減少が前提である日本において、教会の構成員が減少することもまた規定路線です。その中で、本当に教会に人がいる、ということを実現したいならば、教会が社会の一員になること、もっといえば本田哲郎神父のように「小さくされた人々」とともに歩むあり方でしか実現しないのではないかと思います。

 さらに愚かな引用をしますが、この手の暗愚どもは民数記や第二サムエル24章を読んだことがないのでしょうか。頼るは神ではなく、人間の頭数だと公言して憚らないのですから、呆れます。人間に頼るにしても、歴史と伝統に学ぶわけでもないので、まったく、彼らは神学校で何を学んだのか、何も学んでいないではないか、と訝らざるを得ません。谷沢をみた安西先生の心中が慮られます。

 また一言に「伝道」といっても、その意味内容が違うので仕方ありませんが、伝道理解の狭量さが軽佻浮薄で愚昧な人間理解をそのまま体現しますから、愚かにもほどがあるというか、ただただ暗い気持ちになりました。

 何某さん、このあたり、いかがでしょう?2016.10.15 午後一時半前

信仰の友への手紙

日本伝道会議についての元・福音派信徒と現・福音派信徒の往復書簡

 

匿名:日本伝道会議なるものが開催されているそうですね。一言コメントを頂戴できますか。

 

何某:神戸でらしいですね。いいんじゃないですか、福音派で一堂に会する機会ってなかなかないし。なんか楽しそうで。

 

匿名:友人の投稿で、本日、日本会議が開催されていることを知りました。日本伝道会議は、いわゆる福音派のなんちゃらかんちゃらですね。脱北ならぬ脱福したので、もう関係ないわけだけど、それでも、自身の消えることのない聖痕を受けた物語、場所と絡んでいるので気になってしまいます。いい気分ではありません。

 キリスト教宣教ってのを考えてみても、何をすれば良いのか分からない。トイレに行きたい人がトイレへ行くように、腹が減れば食べるように、学びたい人は学ぶし、求める者は求める。同様に、神を求めること/求めないこともまた、人間の本能的欲求です。だから現状こそが、実は、その人が無意識に設定した神との適切な距離なのであって、それは無自覚であるという選択であり自覚です。道交法を知らなくても罰があるように、偶然が誰かの命を救うように、宗教は、国家や法、社会道徳と同じように、個人を最初から飲み込んでいるものだと思うんです。

 キリスト教の日本宣教というのを考えるとき、そこには、キリスト教の独自性が求められる。痩せている太っている、または背が低い高いとか、それが人間という共通の構造に依拠したものであるように、宗教が人間に与え得る機能は、大方の宗教で共通します。しかし、曹洞宗でなければ、ルター派でなければ、スンニ派でなければ与えられない何かという独自性がなければ、その宗教を積極的に喧伝する理由が乏しいように思います。

 仮に、マニ教が真実にして真理であったにせよ、次には、それを共有するための「コミュニケーション合理性」または自然神学の問題が出てきますね。時空の別を超えて、なぜ理解したと理解できるのか。アウグスティヌスが対決したあの男と、現在、中国で残る儀礼の「同一性」を判定するのは誰か。汝がため、誰がため、我がため?

 聖書学の話でいえば、イエスの無自覚的内面から現代のキリスト教徒にいたる連鎖は、限りなく誤解を含みそうです。それを聖霊という語で片付けることも可能ですが、では、聖霊とは何か問題となる。 端的にいえば、聖霊とはミニマムにいえば信仰であり、マキシマムには歴史そのものともいえる。

 ここまで来るとヘーゲルのような微妙な話になり、パネンベルグにいたる問題となって困ってしまう。 この程度の流れならば、私のような浅学非才の凡夫塵芥でも誰でもわりに簡単に理解できるところです。しかし、これ以上を考えるのは、そんな難しいことは分からないとしか言いようがないので諦めてしまうしかありません。

 雨音が先よりは強くなってきました。部屋の片付けを続けなくてはなりませんが、伝道て、何なんでしょうかね。

 

何某:伝道は、たぶん「共同体の拡張」です。だから資本主義の論理で動いちゃ絶対ダメなんですよね。「資本主義から身を守るシェルターの拡張」であるべきだと思います。そもそも、そんなヤバイもん、無理して拡張させたら絶対あかんし。

 

匿名:なるほど、分かりやすいです。となれば、プロテスタントは、プロ倫的に資本主義なんだから、宣教したらやばいのではないかという説になりますね...。先日ツイッターでみた“たとえば「一生懸命運転してます」ってアピールしてる飛行機あったら乗りたくないじゃないですか。一生懸命ってそういうもんだと思う 2016年9月27日 午後11:08” こう思うと、運転とは何か?と考えることがそもそもダメみたいな。つべこべ言わず、人々を天に送ればいいとなる。つまりイスラム国は正しい。イエス国つくるってなるんでしょうね。

 

何某:そうそう、あんまりね、必死になってもね、どうなるもんでもないと思うんですよね。まあ、こういうのって、「村の楽しいフェスティバル」ですからね。秋祭り。 ブックレットは面白そうなので買おうと思います。あ、そうそう、「『プロ倫』はトンデモ本だ」、ということを人々に啓蒙していくのを、わが使命としております。

 

匿名:あれは予定論の理解が、とにかく理解していない感じですよね。大学の先生いわく「日本の知識人のダメなところは、プロ倫よんでキリスト教なり一神教を分かった気になっていること、そもそも聖書原典(BHSではなく、死海レニングラードアレッポの差異)を全く読んでいないことが問題だ、話にならない」そうです。

 伝道ということを考えると福祉(社会的実践)、教育(知性)において、この国で誠実に機能することが、自分たちの宗教性に耳を傾けてもらう前提ではないのかと思います。この誠実さは内輪のノスタルジーとナルシズムの再生産という下心ではなく、外から評価される自己犠牲の精神というか。端的に、教会に利することがなくても大らかに人々に開かれた姿勢で関わっていくことというか。つまり、実践と知性という当然すぎる説得力が、少なくとも教会の外からは見えないんでしょうね。

宣教大会今昔

 宣教大会の今昔について考える。21世紀になってすぐの頃、全国規模の宣教大会に出席した際、当時はまだ新しかったパワーポイントが巨大なスクリーンいっぱいに移され、それを操作する人々の眼鏡にPC文字列が反射しながら流れているのを目撃した。これが新時代の礼拝だ、とでも言わんばかりの何かしらの胎動を感じた。

 この手の新しさを求めるのは、日本国内だけに限らず、おそらく英米などで顕著なのかもしれない。プロテスタントの内的構造が起因なのか、またはCCMなどが直接の発端になるのだろうか。へヴィメタルが流行すれば、それで賛美を歌う。ラップで、初音ミクで、と続く。

 イザヤ書におけるイザヤの召命箇所を読んだ。send meというワーシップソングを思い出した。この手の歌を覚えた時期があるが、たまたま、そっち系の賛美大会のリンクを踏んだ。最後に参加したのは、10年前くらいだったか。同じことを毎年延々とやることが、彼らにとってキリスト教なわけである。

 文化の保存という観点では意味があるし、慣れ親しんだ記号と象徴に安住することに立脚する信仰というのは、多くの宗教に共通することであろう。問題は、その継承され再生産される記号と象徴の権威である。

 伝統の形という意味では正教の古さはカトリックを凌ぐだろうが、それでも、正教が現在の形になっていくのは、ビザンツ千年の半ばだろうから、そうなると、せいぜい千年である。

 プロテスタントに至っては、そもそも500年程度でしか語れず、日本に来てからは150年と少し。伝統という概念が存在するだけである。さらに言えば、善悪は別にして新興プロテスタント諸運動は、まだ伝統という用語が見当たらない段階にある。

 このような現実の中で、自分の信仰は、新興プロテスタント諸派の信仰刷新運動から始まって現在は多様な聖書的伝統としての全体であるキリスト教というところに落ち着いた。生涯の同信の友と思っていた人々とは、自分の人格の問題も含めて、また若気の至りもあり(そういう全てを表すに良い「神の導き」という表現もあるが)いま連絡のある人々はほとんどない。

 変わりに、自分が知っていると思っていたキリスト教ではない、地球規模の全体としてのキリスト教とその干渉から多くの友と示唆を得ている。新しいものは確かに時代にあうものであるが、しかし、その構造なり発想はすでに存在しているものばかりだ。過去に学ぶとき、現在も未来も見える。コヘレトのことば、ソロモンのぼやきが聞こえてくるようである。

1:8 萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず

目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し

1:9 曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし

日の下には新しき者あらざるなり

1:10 見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや

其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり

1:11 己前のものの事はこれを記憶ることなし

以後のものの事もまた後に出る者これをおぼゆることあらじ

 

転会

 教会員籍を移すことにした。理由は色々あるが、最終的には住んでいる場所の教会の会員であることが、もっとも自然に思われたからである。教会員籍を移すのは数年ぶり二度目である。これから、住所が変わるに伴って、または人生の転機にあわせてカテゴライズされる看板は変わっていくだろう。

 一時期、教会員籍は結婚に近い束縛を持つものだと考えたこともあるが、プロテスタントとして聖書を丹念に読み学び調べた結果、教会員籍という考え方は聖書ではなく聖伝に属する問題だと結論するに至った。なので、今は別段、どこの教会に所属しているとか、そういうことには興味がない。

 だから当初は無教会を名乗っても良いと思ったが、無教会は無教会で、誰々先生の集会に出たことがあるといった使徒継承権ならぬ内村継承権のようなものがあるので、いまさらそれを形成していくほどの気概も気持ちもないので、手っ取り早く、よく出席している教会の会員にならせていただくことにした。

 去る教会の牧師、加わる教会の牧師の両者より快諾を得た。ところで、教会員籍を移すことは前提されているし、また信仰を失った場合の退会などの扱いは前提されているが、自覚的な信仰はありつつも退会だけするということは、ケースとして考えられていないことに気付く。おもしろい現象だと思う。

 個人的に教会員籍については、教区性と会議制(主教制・長老主義など)が歴史的なキリスト教のあり方だと考える。

 教会員籍という単語と同時に、三位一体論の意味、牧師が空っぽであること、をメモしていたが、もはや何を考えていたかは覚えていない。おそらく三位一体論は、教会と異教を含む三位一体論的な社会論について、そして牧師が空っぽであること、というのは個人ではなく道具・制度・手続きとしての牧師が求められているとか、そのようなことだろう。

プロテスタントの職業と職制

 牧師の説教の善し悪しを問うことは難しい。神学校へ入った有能な友人が、したり顔でくだらない説教論をかざす先輩に辟易している、という話を聞いた。説教という以外では話を聞いてもらえないのかもしれない。話をきいてほしい場合は、国や地方自治体がやっている病院などにかかれば良いのに、と思う。

 

 牧師の説教の善し悪しを問えるのは、おそらく、次の点に限られる。プレゼンテーションとして(発題、内容、結論の一貫性、発音、発話の明瞭さ)、聖書解釈として(公同信条・教派告白・組織/歴史神学との整合性)、一般的な整合性として(事実誤認の有無、最低限の言動一致の有無)だろう。

 

 カトリックも正教も、神のことばはパンと共に提供される。従って、パンの意味は物理的に、本来的な象徴的機能を失うことがない。しかし、プロテスタントの場合は、多くの教会が聖餐を月に一度程度にしている。形骸化を免れるためであるが、では、象徴のみを抽出した神のことばは形骸化しないのか、というバルト的な目線での大きな問題をはらむ。

 

 そして、ここに人効論が含まれている。表現の仕方にもよるが、サクラメントそのものである神のことばが話者の技能によって効果を制限される。その意味で、牧師が通り良い管であることは相当に難しい。世界信条を含む聖なる伝統(正統と公同)を身につけていないからだ。となると、人効論的要素は捨象し蒸発させたとして、事効論的な観点からのみ評価したほうがよい。

 

 おそらく、そうすることで学びの足りない牧師と苛立つ信徒は守られるのではないか。エゼキエル34章にみる理想の牧者としての神の姿に、恐れと感動を抱きつつ、そうでない者とは関わらぬが吉と思う。もちろん、この理想の牧者像に準ずるプロテスタント牧師にも何度か会ったことはあるが、歴史的根拠がない。従って、属人教区的な、またはある種の修道会(もっと言えば、共同体なり組合)のリーダー程度にしか牧師の価値がない。

 

 神と人の間に立つモノが何もないという以上は、あらゆるプロテスタント牧師たちは、聖書の教師であって聖伝としてのサクラメントではない。従って、会社員やコンビニ店員、公務員なりと同じ職業人である。聖なる職務ではない。

 

  15わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。 16わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

 24主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。 25わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。 26わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。

 31あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。

 

 奇しくもエゼキエル34章は改革派正統主義における贖いの契約論の命名候補箇所である。聖霊論的な歴史展開のための、本体論と経綸論的三位一体論の狭間、聖定の焦点であり、つねに完了であり未完了であるペリコレーシス的シャロームの実現する場としての「平和の契約」である。プロテスタントの職業論は、この平和の契約の器、または相互補完的・作用的場であることを認めねばならない。そして、ここにこそ、プロテスタントの人効論的センスが求められている。

 

 要するに端的にいえば、プロテスタントの精神性は週日と平日のためにあり、その精神性を生かすためには聖伝という巨大な流れに毎週身を浸さねばならないのではないか、ということである。

相克あってこその均衡

 キリスト教油男事件の後に、さまざまに思った。いわゆるペンテコステ派の友人に、どう思うかについても聞いてみたら、興味深く、かつ真っ当な意見をいただいた。友人いわく「霊の戦いというのは、祈りなので、また霊の地図作りというのは、その地域のために祈るためにやるので、なぜ物理的な行動に走ったのか分からない」とのこと。なるほど、ぐうの音も出ない正論である。

 キリスト教プロテスタント神秘主義である聖霊派でも、穏健でまともならば、上掲のように考えるわけだ。したがって、問題は教派・教義でもなく組織でもなく、個人である。

 しかし、その個人の暴走をいかにして食い止めるのか。その際に、聖書学を巡るこの200年の神学との相克、端的にいえば、信仰的な意味でのキリストと学問的な意味でのイエスとの相克があってこその均衡があるのだと思った。

 一方では、伝統的な解釈の蓄積たる神学が、信仰的・歴史的なキリスト教の総体を保持し、その解釈学的循環を保つ。他方、その解釈学的循環を細分化・断片化し再構成する形で、最新の学的成果が、学問的・科学的に浮かび上がるキリスト教の輪郭を描く。

 個人の主体は、その巨大な解釈の枠組みの中で、自らの実存と解釈をかけて、他者、社会とともにキリストに向き合う。この構造そのものが、一定程度、個人の暴走に歯止めをかけている。

 宗教的伝統と学問的成果、その場である社会、社会を構成する個々人の実存、この歴史の総体を前提する信仰の形だけが、おそらく共有可能な信仰形態として、地の塩、世の光として機能する。個人の内的確信がどうであっても、この「人間の条件」を見据えない形を具体化すると、ISなりアメリカの覇権主義なりオウムなりの宗教テロの暴発となる。

 その意味で、どんな無茶苦茶な主張をする人でも、学会に迎え入れておくことは一定程度意味があるのではないか。誰もがリベラルとファンダのグラデーションの中に、個人として存在する以上、存在として人間が暴力である以上、その暴発を互いに防ぐための関係性の担保が必要なのだ。

 そのためには、丁々発止であったとしても、この200年間の聖書学と神学の相克がもっていた均衡は、それが決して50%50%でなかったとしても、社会的には意味があったのではないか、と思う。