相克あってこその均衡

 キリスト教油男事件の後に、さまざまに思った。いわゆるペンテコステ派の友人に、どう思うかについても聞いてみたら、興味深く、かつ真っ当な意見をいただいた。友人いわく「霊の戦いというのは、祈りなので、また霊の地図作りというのは、その地域のために祈るためにやるので、なぜ物理的な行動に走ったのか分からない」とのこと。なるほど、ぐうの音も出ない正論である。

 キリスト教プロテスタント神秘主義である聖霊派でも、穏健でまともならば、上掲のように考えるわけだ。したがって、問題は教派・教義でもなく組織でもなく、個人である。

 しかし、その個人の暴走をいかにして食い止めるのか。その際に、聖書学を巡るこの200年の神学との相克、端的にいえば、信仰的な意味でのキリストと学問的な意味でのイエスとの相克があってこその均衡があるのだと思った。

 一方では、伝統的な解釈の蓄積たる神学が、信仰的・歴史的なキリスト教の総体を保持し、その解釈学的循環を保つ。他方、その解釈学的循環を細分化・断片化し再構成する形で、最新の学的成果が、学問的・科学的に浮かび上がるキリスト教の輪郭を描く。

 個人の主体は、その巨大な解釈の枠組みの中で、自らの実存と解釈をかけて、他者、社会とともにキリストに向き合う。この構造そのものが、一定程度、個人の暴走に歯止めをかけている。

 宗教的伝統と学問的成果、その場である社会、社会を構成する個々人の実存、この歴史の総体を前提する信仰の形だけが、おそらく共有可能な信仰形態として、地の塩、世の光として機能する。個人の内的確信がどうであっても、この「人間の条件」を見据えない形を具体化すると、ISなりアメリカの覇権主義なりオウムなりの宗教テロの暴発となる。

 その意味で、どんな無茶苦茶な主張をする人でも、学会に迎え入れておくことは一定程度意味があるのではないか。誰もがリベラルとファンダのグラデーションの中に、個人として存在する以上、存在として人間が暴力である以上、その暴発を互いに防ぐための関係性の担保が必要なのだ。

 そのためには、丁々発止であったとしても、この200年間の聖書学と神学の相克がもっていた均衡は、それが決して50%50%でなかったとしても、社会的には意味があったのではないか、と思う。