転会

 教会員籍を移すことにした。理由は色々あるが、最終的には住んでいる場所の教会の会員であることが、もっとも自然に思われたからである。教会員籍を移すのは数年ぶり二度目である。これから、住所が変わるに伴って、または人生の転機にあわせてカテゴライズされる看板は変わっていくだろう。

 一時期、教会員籍は結婚に近い束縛を持つものだと考えたこともあるが、プロテスタントとして聖書を丹念に読み学び調べた結果、教会員籍という考え方は聖書ではなく聖伝に属する問題だと結論するに至った。なので、今は別段、どこの教会に所属しているとか、そういうことには興味がない。

 だから当初は無教会を名乗っても良いと思ったが、無教会は無教会で、誰々先生の集会に出たことがあるといった使徒継承権ならぬ内村継承権のようなものがあるので、いまさらそれを形成していくほどの気概も気持ちもないので、手っ取り早く、よく出席している教会の会員にならせていただくことにした。

 去る教会の牧師、加わる教会の牧師の両者より快諾を得た。ところで、教会員籍を移すことは前提されているし、また信仰を失った場合の退会などの扱いは前提されているが、自覚的な信仰はありつつも退会だけするということは、ケースとして考えられていないことに気付く。おもしろい現象だと思う。

 個人的に教会員籍については、教区性と会議制(主教制・長老主義など)が歴史的なキリスト教のあり方だと考える。

 教会員籍という単語と同時に、三位一体論の意味、牧師が空っぽであること、をメモしていたが、もはや何を考えていたかは覚えていない。おそらく三位一体論は、教会と異教を含む三位一体論的な社会論について、そして牧師が空っぽであること、というのは個人ではなく道具・制度・手続きとしての牧師が求められているとか、そのようなことだろう。