信仰の友への手紙

日本伝道会議についての元・福音派信徒と現・福音派信徒の往復書簡

 

匿名:日本伝道会議なるものが開催されているそうですね。一言コメントを頂戴できますか。

 

何某:神戸でらしいですね。いいんじゃないですか、福音派で一堂に会する機会ってなかなかないし。なんか楽しそうで。

 

匿名:友人の投稿で、本日、日本会議が開催されていることを知りました。日本伝道会議は、いわゆる福音派のなんちゃらかんちゃらですね。脱北ならぬ脱福したので、もう関係ないわけだけど、それでも、自身の消えることのない聖痕を受けた物語、場所と絡んでいるので気になってしまいます。いい気分ではありません。

 キリスト教宣教ってのを考えてみても、何をすれば良いのか分からない。トイレに行きたい人がトイレへ行くように、腹が減れば食べるように、学びたい人は学ぶし、求める者は求める。同様に、神を求めること/求めないこともまた、人間の本能的欲求です。だから現状こそが、実は、その人が無意識に設定した神との適切な距離なのであって、それは無自覚であるという選択であり自覚です。道交法を知らなくても罰があるように、偶然が誰かの命を救うように、宗教は、国家や法、社会道徳と同じように、個人を最初から飲み込んでいるものだと思うんです。

 キリスト教の日本宣教というのを考えるとき、そこには、キリスト教の独自性が求められる。痩せている太っている、または背が低い高いとか、それが人間という共通の構造に依拠したものであるように、宗教が人間に与え得る機能は、大方の宗教で共通します。しかし、曹洞宗でなければ、ルター派でなければ、スンニ派でなければ与えられない何かという独自性がなければ、その宗教を積極的に喧伝する理由が乏しいように思います。

 仮に、マニ教が真実にして真理であったにせよ、次には、それを共有するための「コミュニケーション合理性」または自然神学の問題が出てきますね。時空の別を超えて、なぜ理解したと理解できるのか。アウグスティヌスが対決したあの男と、現在、中国で残る儀礼の「同一性」を判定するのは誰か。汝がため、誰がため、我がため?

 聖書学の話でいえば、イエスの無自覚的内面から現代のキリスト教徒にいたる連鎖は、限りなく誤解を含みそうです。それを聖霊という語で片付けることも可能ですが、では、聖霊とは何か問題となる。 端的にいえば、聖霊とはミニマムにいえば信仰であり、マキシマムには歴史そのものともいえる。

 ここまで来るとヘーゲルのような微妙な話になり、パネンベルグにいたる問題となって困ってしまう。 この程度の流れならば、私のような浅学非才の凡夫塵芥でも誰でもわりに簡単に理解できるところです。しかし、これ以上を考えるのは、そんな難しいことは分からないとしか言いようがないので諦めてしまうしかありません。

 雨音が先よりは強くなってきました。部屋の片付けを続けなくてはなりませんが、伝道て、何なんでしょうかね。

 

何某:伝道は、たぶん「共同体の拡張」です。だから資本主義の論理で動いちゃ絶対ダメなんですよね。「資本主義から身を守るシェルターの拡張」であるべきだと思います。そもそも、そんなヤバイもん、無理して拡張させたら絶対あかんし。

 

匿名:なるほど、分かりやすいです。となれば、プロテスタントは、プロ倫的に資本主義なんだから、宣教したらやばいのではないかという説になりますね...。先日ツイッターでみた“たとえば「一生懸命運転してます」ってアピールしてる飛行機あったら乗りたくないじゃないですか。一生懸命ってそういうもんだと思う 2016年9月27日 午後11:08” こう思うと、運転とは何か?と考えることがそもそもダメみたいな。つべこべ言わず、人々を天に送ればいいとなる。つまりイスラム国は正しい。イエス国つくるってなるんでしょうね。

 

何某:そうそう、あんまりね、必死になってもね、どうなるもんでもないと思うんですよね。まあ、こういうのって、「村の楽しいフェスティバル」ですからね。秋祭り。 ブックレットは面白そうなので買おうと思います。あ、そうそう、「『プロ倫』はトンデモ本だ」、ということを人々に啓蒙していくのを、わが使命としております。

 

匿名:あれは予定論の理解が、とにかく理解していない感じですよね。大学の先生いわく「日本の知識人のダメなところは、プロ倫よんでキリスト教なり一神教を分かった気になっていること、そもそも聖書原典(BHSではなく、死海レニングラードアレッポの差異)を全く読んでいないことが問題だ、話にならない」そうです。

 伝道ということを考えると福祉(社会的実践)、教育(知性)において、この国で誠実に機能することが、自分たちの宗教性に耳を傾けてもらう前提ではないのかと思います。この誠実さは内輪のノスタルジーとナルシズムの再生産という下心ではなく、外から評価される自己犠牲の精神というか。端的に、教会に利することがなくても大らかに人々に開かれた姿勢で関わっていくことというか。つまり、実践と知性という当然すぎる説得力が、少なくとも教会の外からは見えないんでしょうね。