宣教大会今昔

 宣教大会の今昔について考える。21世紀になってすぐの頃、全国規模の宣教大会に出席した際、当時はまだ新しかったパワーポイントが巨大なスクリーンいっぱいに移され、それを操作する人々の眼鏡にPC文字列が反射しながら流れているのを目撃した。これが新時代の礼拝だ、とでも言わんばかりの何かしらの胎動を感じた。

 この手の新しさを求めるのは、日本国内だけに限らず、おそらく英米などで顕著なのかもしれない。プロテスタントの内的構造が起因なのか、またはCCMなどが直接の発端になるのだろうか。へヴィメタルが流行すれば、それで賛美を歌う。ラップで、初音ミクで、と続く。

 イザヤ書におけるイザヤの召命箇所を読んだ。send meというワーシップソングを思い出した。この手の歌を覚えた時期があるが、たまたま、そっち系の賛美大会のリンクを踏んだ。最後に参加したのは、10年前くらいだったか。同じことを毎年延々とやることが、彼らにとってキリスト教なわけである。

 文化の保存という観点では意味があるし、慣れ親しんだ記号と象徴に安住することに立脚する信仰というのは、多くの宗教に共通することであろう。問題は、その継承され再生産される記号と象徴の権威である。

 伝統の形という意味では正教の古さはカトリックを凌ぐだろうが、それでも、正教が現在の形になっていくのは、ビザンツ千年の半ばだろうから、そうなると、せいぜい千年である。

 プロテスタントに至っては、そもそも500年程度でしか語れず、日本に来てからは150年と少し。伝統という概念が存在するだけである。さらに言えば、善悪は別にして新興プロテスタント諸運動は、まだ伝統という用語が見当たらない段階にある。

 このような現実の中で、自分の信仰は、新興プロテスタント諸派の信仰刷新運動から始まって現在は多様な聖書的伝統としての全体であるキリスト教というところに落ち着いた。生涯の同信の友と思っていた人々とは、自分の人格の問題も含めて、また若気の至りもあり(そういう全てを表すに良い「神の導き」という表現もあるが)いま連絡のある人々はほとんどない。

 変わりに、自分が知っていると思っていたキリスト教ではない、地球規模の全体としてのキリスト教とその干渉から多くの友と示唆を得ている。新しいものは確かに時代にあうものであるが、しかし、その構造なり発想はすでに存在しているものばかりだ。過去に学ぶとき、現在も未来も見える。コヘレトのことば、ソロモンのぼやきが聞こえてくるようである。

1:8 萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず

目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し

1:9 曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし

日の下には新しき者あらざるなり

1:10 見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや

其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり

1:11 己前のものの事はこれを記憶ることなし

以後のものの事もまた後に出る者これをおぼゆることあらじ