プロテスタントの職業と職制

 牧師の説教の善し悪しを問うことは難しい。神学校へ入った有能な友人が、したり顔でくだらない説教論をかざす先輩に辟易している、という話を聞いた。説教という以外では話を聞いてもらえないのかもしれない。話をきいてほしい場合は、国や地方自治体がやっている病院などにかかれば良いのに、と思う。

 

 牧師の説教の善し悪しを問えるのは、おそらく、次の点に限られる。プレゼンテーションとして(発題、内容、結論の一貫性、発音、発話の明瞭さ)、聖書解釈として(公同信条・教派告白・組織/歴史神学との整合性)、一般的な整合性として(事実誤認の有無、最低限の言動一致の有無)だろう。

 

 カトリックも正教も、神のことばはパンと共に提供される。従って、パンの意味は物理的に、本来的な象徴的機能を失うことがない。しかし、プロテスタントの場合は、多くの教会が聖餐を月に一度程度にしている。形骸化を免れるためであるが、では、象徴のみを抽出した神のことばは形骸化しないのか、というバルト的な目線での大きな問題をはらむ。

 

 そして、ここに人効論が含まれている。表現の仕方にもよるが、サクラメントそのものである神のことばが話者の技能によって効果を制限される。その意味で、牧師が通り良い管であることは相当に難しい。世界信条を含む聖なる伝統(正統と公同)を身につけていないからだ。となると、人効論的要素は捨象し蒸発させたとして、事効論的な観点からのみ評価したほうがよい。

 

 おそらく、そうすることで学びの足りない牧師と苛立つ信徒は守られるのではないか。エゼキエル34章にみる理想の牧者としての神の姿に、恐れと感動を抱きつつ、そうでない者とは関わらぬが吉と思う。もちろん、この理想の牧者像に準ずるプロテスタント牧師にも何度か会ったことはあるが、歴史的根拠がない。従って、属人教区的な、またはある種の修道会(もっと言えば、共同体なり組合)のリーダー程度にしか牧師の価値がない。

 

 神と人の間に立つモノが何もないという以上は、あらゆるプロテスタント牧師たちは、聖書の教師であって聖伝としてのサクラメントではない。従って、会社員やコンビニ店員、公務員なりと同じ職業人である。聖なる職務ではない。

 

  15わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。 16わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

 24主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。 25わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。 26わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。

 31あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。

 

 奇しくもエゼキエル34章は改革派正統主義における贖いの契約論の命名候補箇所である。聖霊論的な歴史展開のための、本体論と経綸論的三位一体論の狭間、聖定の焦点であり、つねに完了であり未完了であるペリコレーシス的シャロームの実現する場としての「平和の契約」である。プロテスタントの職業論は、この平和の契約の器、または相互補完的・作用的場であることを認めねばならない。そして、ここにこそ、プロテスタントの人効論的センスが求められている。

 

 要するに端的にいえば、プロテスタントの精神性は週日と平日のためにあり、その精神性を生かすためには聖伝という巨大な流れに毎週身を浸さねばならないのではないか、ということである。